1/28/2021

時代がどれだけ変化しようとも揺るがないモノとは

前回前々回と、まあ、いつもの“能書き”と言いますか、戯言(ざれごと)を述べさせていただいたわけですが、今回は、箸休めの回です。

今朝方、とある会報誌のインタビュー記事に目が留まりました。

僕は確定申告では職業欄に[イラストレーター]と書きますけど、最初にいったやつだからそうしているだけで、[イラスト]の仕事は年に数枚あるかどうか。[文章]に関しては[コラムニスト]と称することはありますけど、自分のことを[俳優]といったことはありません。それは、見た人がそうだといってくれたら、そうなのだと思います。

リーリーフランキーさんのことばです。カッコ[]は、筆者が勝手に入れました。

常々、筆者は“原料屋”でありたいなどと言っていますが、見事に「そんなことは、どうでもいい」と思わせる歯切れの良さに、ただただ頷きます。どれだけ格好つけたからといっても、他人が、「こいつは、原料屋だな」と思えばそうだし、「“クズ屋”だな」と思えばそのようであるのです。不確実性の高い昨今の経済状況から、「こんな苦しい状況なんだから、これはこれぐらいでいいだろう」と割り切った時点で、己の可能性は、そこで終わってしまうのではないか、そのようにも考えました。カッコ[]を埋めるのは、自分ではなく、他者であると。

リング取引やめるってさ

Bloomberg 『ロンドン金属取引所、伝統の「リング取引」を恒久的に停止も

このハナシも、香港取引所傘下になった時点で、「時代は変わる」といった常套句と共に、何度も取り上げられています。今般のウィルス騒動の影響を真正面に受け、リング廃止が現実のものとなりました。

今朝方、Twitter上に興味深い記事を見つけました。Lipmann Walton and Co Ltdという会社のオーナーさんが書かれた記事(上記Twitter引用)です。(Web上のプロフィールを拝見するに、希少金属トレーディングをなさっているようでして、氏は40年以上、金属トレーディングに携わっておられる。)

一体、なにに惹かれるのかというと、氏が紡ぐ言葉の節々から、LMEが放つ“汗臭さ”を感じることができるからです。

私がこの業界に入った1970年代は、まだみんなランチをしながらバカ飲みをして、お互いの弱点や長所を探り合い、信頼関係を築き、噂話をしていました。しかし、ランチタイムに赤を数本飲んでいた人たちでさえも、私より頭のいい算数ができているように見えたのです。

参照:DeepL翻訳

良くも悪くも保守的で、一般には閉ざされた、かつてのLMEは、もう存在しない。氏曰く、現在のLMEが担う役割は、「もはや金属云々関係なく、コモディティ全般の金融化 (wasn't really about metal any more but the financialisation of commodities in general) としての機能しか持たなくなった」のだ。

なんだかんだ言っても、ボーイズ・クラブ

筆者の数少ない金属トレーディングの経験の中で、ひとつ、ダイアモンドより硬い確信があります。それは、「金属原料(クズ)の世界は、所詮、体育会系のハードな部活動である」ということです。決して、「岩石マニアの同友会」ではないのです。

試しに、我が国における銅関連の製販・流通一体を担う、三銅業(一般社団法人 日本伸銅協会、東京都伸銅製品商業組合、東京非鉄金属商工協同組合)の賀詞交歓会に参加されてみるといいと思います。大手商社を筆頭に、少なからず女性の参加者もおられますが、恐らく参加者の9割強は、天より一物を授かった人間です。

試しに、米国のリサイクル組合であるISRIの定期カンファレンスに参加されてみるといいと思います。こちらは、百歩譲って、参加者の8割が男です。こちらの女性比率が高い理由は、企業が設ける商談ブースの受付・接客が女性だからです。中華系の企業は、経営層や営業担当が女性ということも多々ありますが、地場の企業は、ほとんどが強欲そうなオトコです。

そして、どこの国でも、どこの業界でも、「そこんところ」は、詳しく分かりませんが、恐らく「大事なことは、ひっそり、こっそりと、男同士密室で会食をしながら」決められていると思います。特段、女性じゃハナシにならないとか、そういうことではなく、ただ単に、「仲のいい連中と、下ネタでも言いながら、ふざけあって、そのついでに大事なハナシも、それとなく決められたらいいよな」という、オトコ特有の“クセ”が原因だと思います。

時流としては、“多様性(ダイバーシティ)”だとか、“男女差別の撤廃”といったリベラルな大義名分のもと、「透明性を!」みたいなハナシになるのでしょうが、ねえ。要は、既得権益層に喰い込みたいだけの、“コト”の表層的な部分しかみていないやつらの戯言です。

古から連綿と受け継がれてきた、その“汗臭さ”を無くすために奔走したところで、なにが得られるのでしょうか。確かに、一部の“クラブ・メンバー”は、いつもの場所で“部活”ができなくなって意気消沈でしょうが、多くのメンバーは、「じゃあ、違うところでやるから」と、下層メンバーのいないところで、「ひっそり、こっそりと」活動を続けていきます。

つまり、相場の上げ下げとは別の次元において、「これまでも、これからも、重要なことは、シティー・オブ・ロンドンで決まる」のでしょうし、その“ボーイズ・クラブ”を束ねる“大資本家”の威光も不変なわけです。確かに、電子取引をもってすれば、人々の接触なり無駄は排除できるのでしょうし、文字面としては“健全”なのかもしれません。ただ、「工業の発展に必要となる生産財の取引」という観点からみたときに、実際の人間を介在することなく、“思惑の実態”としての数字だけが飛び交うことに、不足はないのでしょうか。

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1/25/2021

みちるリソースがこれまで文字によって紡いできた“幹”の部分 (パート2)

前回のつづきです。

憚りながらも、「業界には革新が必要だ」などという生意気な暴論を吐かせていただいたわけですが、真意を伝えられていない恐れがあるので、もう少しだけ、手前の能書きにお付き合いください。

前回、“ゴミ”の輸出に際して、「なんでもかんでも第三世界に送り込んで、“なかったこと”にするのは、もはや時代錯誤ではないか」ということについて言及しました。ここで明確にしておきたいのは、筆者は、むしろ“スクラップ貿易”をやってゆきたい。なぜかというと、前回のポストでも少し触れましたが、「どうやったら、いちばん高く売れるか」ということを考えたときに、日本国内の小さなマーケットだけを見ていたら、競争上の優位性はなかなか出ない。また、「コンテナ単位でコモディティを扱うこと」に、計り知れない魅力があるからです。ただ、「第三世界の人間でさえ二の足を踏むような“えげつない”スクラップというのは、結局のところ、ゴミでしかないし、コモディティたり得ない」ので、そういった商行為は、やるべきでないという思いです。

そして、もし、左記のような“ゴミ”が、なんらかの技術革新で、“資源”ないしコモディティたり得る状態にまで昇華できるのであれば、率先して取り組むべきだし、その“技術革新”を成し遂げた人物は、大いに保護されるべきだし、大いに利益を獲得すべきだとも考えています。

コモディティとしての金属スクラップ

筆者は、「国内で発生した資源は、極力、国内で再循環させるべきだ」と考えています。ただ、もし、日本以外のマーケットで、下記を担保できる場所があるのであれば、もちろん、それは、「日本に拘る必要性」はないに等しいと思います。場合によっては、その第三国で加工されたものが、回りまわって、日本の製品市場に帰ってくることだって、往々にして考えられます。つまり、循環しているのです。“純然たるコモディティ”たり得ているのです。

  • 「日本では価値が低いとされるモノ」が評価を得られる(=新たな価値)
  • 「日本でも売れるモノ」に対して妥当な評価を得られる(=競争力)
  • 輸出先において環境負荷が低く、買主側が効率的な資源を回収する術を知っている(=永続性)

例えば、銅と鉄で構成されたスクラップを20トン以上仕入れたとします。たしかに、国内で解体して、銅を取り出して、鉄を取り出して、選別をすれば、“それなりの値段”で売れます。ただ、結局のところ、営業に係るコストや、解体・選別、「日本では価値が低いモノ」を捌くコストなんかを考えたら、「割が合わないな」と考えてしまうかもしれません。だったら、「右から左に、薄いマージンでも売っておきたい」と。現行のスクラップ商売では、相場の動向をつぶさに伺い、ヒリヒリしながら、時折やってくる上げ相場を期待して加工を続けるのか、確実にマージンを積み上げるのか、左記の二者択一に限られると思います。

かつての中国は、「賃金が安いから」、「ゴミの処理費が安いから」、雑品(複合金属屑)なり、雑線(電線屑)を山ほど買い集めることができたのでしょうか。それは、おそらく「コストがべらぼうに安いから」ではなく、「なにからなにまで、とことん有効に活用する術を知っていたから」です。少なくとも、筆者は、そのように信じています。だからこそ、「外国では価値が低いが、中国では価値が高いモノ」を見出すこともできたのでしょうし、価格決定権を得たからこそ、莫大な物量を世界中からかき集めることができたのでしょう。

“貪欲である”ことの強さ

確かに、同地において、環境負荷の高い“えげつないこと”をして財を成した方々もいらっしゃるのは、間違いないでしょう。なぜならば、人間は、「勝つためなら、ズルでもなんでもする」からです。ですが、太く長く商売をしていく気概のある人間は、短期的な一喜一憂を嫌います。つまり、筆者が言いたいのは、「中国が、何十年とスクラップ貿易のプライスリーダーたり得たのは、資源の有効活用に対する“貪欲さ”である」ということです。(単純に、レイバーコストを抑えようと思ったら、日本であっても、実現可能性はあります。刑務所の作業場に発注することも考えられるでしょうし、政府の補助金を使って、特殊な事情で正規雇用が難しい方々を雇うこともできましょう。今の流行は、東南アジアの研修生でしょうか。)

その“貪欲さ”に付け込んで、「物量は確保するから、ちょっと“えぐい”モノも引き受けてくれ」だとか、「他の業者は、この品質でも良いと言ってたけど」といった泥臭いやり方を押し付ける“ずるい”人間が増え、「一円でも高く買うから」と言って、無尽蔵に単価を吊り上げる愚直な業者が増えたからこそ、品質が粗悪になり、大陸で加工をする人間が、「もう、やってらんねえよ」と匙を投げた。そこに、「環境先進国になる」という政府の大綱が共鳴し、「じゃあ、お前ら、カネ出してやるから、他の国でやってみろや」という資本家の号令をもって、現在のような体制が急ピッチで築かれたのではないか、そのように筆者は考えています。

業者にとっては、大陸で手詰まり状態であったところに、“仕切り直し”のチャンスが生まれ、政府にとっては、「汚いイメージを払拭する」絶好のチャンスが生まれました。資本家にとっては、新たな“カネの源泉”を生み、新たな“物流・カネの流れ”をつくり、新たな“パワー”を得られたのですから、誰しもが得をしているわけです。ただ、損をしているのは、資本家に取り入ってもらえなかった業者と、なんの後ろ盾もない商社連中だと思います。

次回につづきます。

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1/13/2021

みちるリソースがこれまで文字によって紡いできた“幹”の部分

昨日の未明より、ぽつぽつと降り続いた雪の残り香が漂っております。こんな日は、過去の投稿を振り返りながら、これまで蓄積してきた暴論の数々を振り返りながら、思考の整理を行ってまいりたいと思います。先回で言及した通り、そろそろ、投稿が100を迎えます。非鉄金属スクラップ並びに、ベースメタル原料貿易、地政学について、思うがまま書き殴ってきたわけですが、いち媒体としての昇華を図るべく、みちるリソースがこれまで文字によって紡いできた“幹”の部分と、未来を創造してゆくための“枝葉”の部分を、明らかにしてみたいと思います。今回は、前者について言及します。

みちるリソースが、繰り返しお伝えしたいこと

  • 静脈(スクラップ再生)産業も革新が必要だ
  • 大局的な視野で物事を捉え、流動的に行動ができないと、飢え死に至る
  • 中国の“ヤバさ”というのは、一見荒々しい無謀な施策でありながらも、それが実際に将来のための荒療治であるということ
  • 「化かす(イリュージョン)能力の有無」が、"スクラップ"を取引する上での"旨味"に直結していた

静脈(スクラップ再生)産業も革新が必要だ

この暴論に関しては、『資源を再生し、儲かる商売として成立させるためには』という記事の中から抽出しました。この考え方は、筆者が当業界に足を踏み入れた時分より、強く感じていることです。

当業界は、殊に、「属人的な要素が強い」と思います。選別や加工手法にしてもそのようであるし、仕入れから販売までも、もちろんそのようであります。前者に関しては、ざっくり言えば、「人の手をかければ、キロ当たりの単価が〇〇円上がる」という思想です。後者に関しては、いわゆる、「あの人だとダメだけど、あの人ならイイ(=特定の人で取引が決まる)」という思想です。

極論を言ってしまえば、選別・解体手法のちょっとした違いで、付加価値が大きく変わるのであれば、市中一般の末端業者が、メーカーへ直接納入を行う業者と同じ仕様で荷造りした際に、市場における最高の単価で売れるということではないでしょうか。しかしながら、文字通り、「そうは問屋が卸さない」わけです。システムとして、“そのように”なっているからこそ、素人は玄人に太刀打ちできない。恐らく、江戸の商人文化の影響でしょうか。需要家は、大問屋から仕入れ、大問屋は仲買人然り、小規模の問屋から仕入れる。小規模の業者は、市中一般から買い集める。連綿と続いてきた文化なのだと理解しています。

筆者は、当業界を「下剋上の世にすべし」とは思いません。やや冗長的であることを否定しませんが、文化としての“エコシステム”を抜本的に変えることに意味はないと考えます。なぜかというと、“それ”を壊すことで、想定外のところに歪(ひずみ)なり、痛みが伴うことがあるからです。場合によっては、良かれと思ってやったことが、自分の首を絞めることに発展しかねない。“それ”が、淀みなく流れるからこそ、業界全体に潤いが与えられるものだからです。

時代は変わる

ただ、変えるべきことがあります。それは、業界に蔓延る“売上至上主義”の是正です。確かに、売上が立たなければ、会社の継続運営ができません。ですが、行き過ぎたところに、「高く売るために、手をかけよう。(選別・加工上発生する)ゴミの処分は、あとで考えればいいから」という“逃げ”があります。また、根拠がないにも拘わらず、「ゴミみたいなもんだけど、どこそこに持っていけば、高値で買ってくれるらしい」という“勘違い”があります。それらが、回りまわって、どこかに滞留して、にっちもさっちもいかなくなって、誰かの首が回らなくなるのです。その誰かが、自分になることだって、十二分に考えられます。

かつては、海外に輸出してしまえば、低賃金労働者がなんとかしてくれたわけです。これからも、どこかの第三世界で、そういったことは繰り返し行われるのでしょうが、いつかは、彼らも気が付くわけです。「なんか、割に合わないな」と。そうすると、彼らは、「山奥で燃やせばいいや。そのまま捨てておけばいいや」と考えるようになります。もし、世界の環境宗グローバリストの望む世界が拡大してゆくのであれば、世界はどんどんフラットになっていきます。いわゆる“掃きだめ”のような世界が縮小します。いずれは、現実的な手段ではなくなるのかもしれません。

時代は、変わるのです。「どこそこの第三世界に持っていけば…」などとよからぬ妄想をするよりは、与えられたエコシステムの中で、「どうやったら、有価物(廃棄物)の回収率を向上(低減)させることができるのか」ということ、「できあがった商品は、どこに、どのようにして売れば、最も付加価値をつけられるのか」ということに熱くなるべきではないでしょうか。それが達成できれば、ニッチな商材であればあるほど、当然のごとく利益は大きくなります。市場における優位性が劇的に向上します。価格の決定権を握ることさえできるようになります。

金属スクラップはコモディティ

金属スクラップは、これまでもこれからも、相場に左右される純然たる“コモディティ”です。かつてに比べ、売りにくいのは異物(ゴミ)のせいだし、割安なのは、違う金属(異材)が多く混入しているがゆえに、金属としての純度が低いからなのかもしれません。言い換えれば、“クリーン”であればあるほど、流通させやすくなるし、需要家が欲する品位に近づくほど、“それ”に対するプレミアムが高くなります。だからこそ、現在、電気銅相場が高止まりしているのでしょう。相場が示しているのは、“それ”の価格であって、二号銅スクラップのそれではないのです。

繰り返しになりますが、金属スクラップの流通性が低下したがゆえに、金属製品としての電気銅のプレミアムが増し、製品とスクラップの価格に乖離が生まれました。左記に述べた流通性の変化は、商品市場におけるスクラップの定義を再考する戦略的な動き、貿易上の取引(検収)基準の見直しが図られていたことに由来します。注意すべき点は、「金属スクラップ自体の商品性は、一切変わっていない」ということです。変わったのは、「一大消費国に入れられるか、入れられないか(=クリーンであるか否か)」という判断であり、それに沿って、電気銅対比での各スクラップ品位毎の料率も是正されるようになったのです。

結局、プライスリーダーあっての商売

妄想の世界のハナシですが、今、そこかしこで、「今の相場なら、かつて二号銅はこれぐらいで売れた」とか、「うちの二号銅は、ダスト少ないから品質が良い。高く買ってよ」などといった交渉が続いているものと思います。しかしながら、現実問題としては、目下、中国向けの基準では、「一号銅ではない雑多な銅屑は、論外」であるし、「ダストの多少で価値は変わらない」わけです。そもそも、規格外のモノは原料として成立しないし、ダスト云々というハナシは、通関をする上での検収基準に抵触するわけですから、論外の論外であるわけです。じゃあ、その“得体の知れないスクラップ”を、彼の大国以上の金額で買うところがあるかと言えば、それは考えにくい。プライスリーダーに勝つためには、別の思惑がなくてはなりません。

最終的な打開策として、それを日本国内の需要家に販売しようとなった場合、そこでも様々な制約が設けられます。荷姿然り、異物の混入具合などです。ああでもない、こうでもないと指摘を受けながら、どうにかこうにか商品を仕上げるわけです。なんとか納入までこぎつけ、受入時の検収もクリアします。幾ばくかの月日が過ぎ、販売先から、「御社の商品は、銅が○○%しかなかったので、評価金額はこのようになりますが、よろしいですね」と連絡が来るわけです。当然、これまで大陸に輸出していた二号銅と同等の評価を得られるモノと“期待”しているわけですから、“結果”に納得することができません。激昂しますよね。当該取引の販売先からは、「じゃあ、銅分何パーセント出ると思って売ったのですか」などと逆ギレされる始末。そうは言われても、今まで、「一号銅にならない銅屑」としての二号銅をつくっていたので、わからない。ひとつ言えたのは、「仕入れの時期によって違うけど、ダストは2%ぐらいだ」ということ…。

上記、よくあるハナシかつ、これから頻発するであろうハナシだと思います。かつての銅ナゲット製造合戦のように、「一生懸命つくったのに、返品になった!」みたいなハナシにはならないと思いますが、場合によっては相当揉めますよね。仮に、揉めなくとも、需要家サイドは、新参者を調整弁として利用します。手綱を緩めたり引き締めたりしながら、大陸の相場をみながら、“ほどよい塩梅”で商売をやっていくでしょうね。もちろん、一部のスクラップ・グレードによっては、日本国内の需要家向けの値段に優位性があり続けるでしょうから、それはそれとして、流通させる意義は残ります。まあ、結局のところは、国内で売るにしても、中国向けに輸出するにせよ、割安で売ることを良しとしないのであれば、「ピカピカでクリーンな原料としてお届けする義務」がつきまとうわけです。

今までと同じやり方で、今までの売り先が買ってくれる保証は、どこにもありません。今までのやり方で、新規販売先を開拓できるのかというと、それもあり得ません。筆者が、「静脈(スクラップ再生)産業も革新が必要だ」と嘯く理由は、そこにあります。「自分はこうだけど、お前はまだそんなことしているのか」といったマウンティングのための提言ではありません。革新が起こらず、業界全体が停滞することになんのメリットはないからです。停滞は死を意味します。もしかしたら、生き残れるのは、需要家と、今この瞬間、先進的な試みを行っている一部の業者だけなのかもしれません。

次回につづきます。

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1/03/2021

だからこれからも、ゴミの話がしたい

2020年は、赤色の動画配信サイトのダウンやら、同サイトにおける米国大統領選に対する独自の"自主規制"など、「なんだかなあ」と思う点が目立ちました。水色のマイクロブログサイトの"それ"にも、本当にうんざりしました。青いSNSサイトにしても、同様のことが言えると思います。かつては、誰もが「自由気ままに、思うままに、それぞれの思いを発信できていた」と。縁遠くなっていた旧友や、遠く離れた親友、同質な他者との「関係を繋ぎとめてくれる特別な場所」であると思い込んでいました。

今となっては、そんな楽園なんていうものが存在しないということは、誰もが知っています。先人は、こう言いました。「只より高いものはない」と。結局は、我々の一挙手一投足が、商売の"ネタ"として、インターネット上の"帝国"に献上され、情報資源として、彼らの経済的な繁栄のツールとして利用されていただけに過ぎません。

ほらね

本年最初の投稿になりますが、これ見よがしに過去の投稿を掘り起こして、「ほら、言ったとおりになっただろ」と嘯くこともできましょう。しかし、そんなことは、どこぞの大手投資会社のアナリストに任せておけばいいことです。手前の情報は、所詮、インターネット上で得られる二次情報と、ほんの少しの一次情報を掛け合わせただけに過ぎません。また、実際のところ、手前の商売の都合や、取引先との関係性から、「直接お伝えできないこと」も多々ありました。つまり、当ブログは、当然のことながら、筆者の相当なバイアスがかかっているのです。胡散臭い情報であることに間違いはありません。

筆者が発信している、ベースメタル並びに貿易関連の市況情報は、意外と"niche(ニッチ)"であります。特に、資源スクラップ市況に関する情報は、その"隙間"に生える"ditch(ドブ川)"のような存在であるが故に、その流れ自体に勢いはありません。当業界において、最も流動的な情報は、これまでもこれからも、「他所(よそ)が、いくらで買っているか」ということにあるということに変わりはありません。いわば、海外の政経事情がどのようであるとか、モノづくりの世界がどのようであるかといった、"縁の遠い世界"の情報は、それほど「必要とされていない(=ウケない)」のです。

だからこそ、筆者はこの「縁遠い世界の話がしたい」のです。もっと欲張った言い方をすれば、同業者に向けた「マウンティングのための情報」で終わるのではなく、いわゆる"フツー"の人に対しても、訴求力のあるハナシを提供したい。もっともっと、ドブ溝(みぞ)の奥底に潜むドロドロとした"異臭"そのものを、ことばにしたい。もう少し、突き抜けたい。その心は、近い将来、「多くのゴミが、ゴミでなくなる時代が来る」と真に信じているからです。

劇的なパラダイムシフト

それは、つまり、「"要らなくなったモノ"の定義が大きく変わる」ということです。恐らく、いちばん簡単なのは、消費者心理をねじ曲げることです。政府が、「今後、レジ袋は有料だ。環境に悪いからな」と言えば、市井の人々は、「ああ、そういうもんなんだな」と、最初はぎこちなくも、いずれは、"それ"に順応します。それと同様に、これからも、"これまでの当たり前"が、為政者の都合によって、着々と書き換えられていくことは、容易に想像できます。

目下、世界中のエリートが、揃いも揃って「脱炭素しないと…」とフツーの人々に対して脅しをかけています。つまり、そこには商機があるわけです。どうしてもねじ込みたい利権があるが故に、"そういう世界"を彼らは創出したい。

言うなれば、彼らは、無尽蔵に消費"させる"ことができなくなりつつある枯渇性資源(Non-renewable Resources)に絡む利権に見切りをつけたのではないでしょうか。資源が枯渇しているから、温暖化に繋がるから、というよりは、当該利権を生む泉そのものが、干上がっている。なんせ、"それ"は、先人が残した効率の悪いレガシーを継続して稼働させるために、一定量は備蓄しておかなければならないからです。

なにが3Rだ

だからこそ、彼らは、再生可能資源(Renewable Resources)やら、循環資源(Recyclable Resources)を使いこなす術を、一生懸命考え"させる"ことに躍起になっているのではないでしょうか。もはや、我々が直面する、次の産業革命は、「資源開発の超効率化」かもしれません。電気自動車やAI、量子は、その目的を達成するための手段でしかない、そのように考えています。度々、当ブログで言及していますが、宇宙における鉱物資源の開発プロジェクトも着々と進んでいますし、アフリカにおける巨大銅山プロジェクトも順調に進んでいます。

現在は、政情不安な国々に依存している鉱山開発ですが、将来、もしかしたら、「ネバダ鉱山でロボットとの労使交渉まとまる。品位○%、産出見込み○○万トンの鉱床をAIが発見」といったニュースが当たり前になるかもしれません。もしかしたら、「金属で形成された彗星が、軌道を大きく変えたため、露鉱物探査機ラスプーチン、プラチナ・パラジウム・ロジウムの獲得に大幅な遅れ。白金族相場への影響大」といったハナシもあり得なくはないです。

例の如く、ハナシが脱線しましたが、お伝えしたいことは、ただひとつ。ゴミは、これまで無尽蔵に捨ててきたわけですから、宇宙の果てまで行かなくとも、"夢の島"を掘り返せば、いくらでも獲得できるわけです。また、玄人っぽい言い方をすれば、資源物の見込み品位は、ある程度予測できるわけです。「ネタは腐るほどあって、利回りが計算できる」となれば、それに投資をしたいという人は、少なくはありません。

そもそも、儲かるんだよね

そして、製錬技術、再生材を使いこなす技術の進歩が前提となりますが、バージン・鉱石由来の材料の依存度が低下すればするほど、地政学的リスクに左右されない国家運営が容易になります。つまりは、「ゴミの回収から選別、加工処理、再資源化の方法を一元化・効率化すればするほど、本来は色んな意味で儲かる」はずなんです。資源循環事業は、国家の基幹産業として成長させるべきだと言っても過言ではありません。

実際には、利権構造の盤石な日本においては、それほど抜本的な変革は起きないと思います。しかしながら、外圧というか、海外における資源リサイクル事情の変化によって、少なからず、我が国も影響を受けるものと捉えています。例えば、欧州で、「電気自動車に使用されるモーター類は、すべて製造会社の監督下かつ、域内でマテリアルリサイクルを行うものとする」といった法律が成立したらどうでしょう。安直な発想で恐縮ですが、まずは雇用の創出に繋がりますよね。そして、モーター製品をつくる側の調達コストの低減。真っ当な思想としては、域外への戦略物資の流出防止など。

彼の大陸(EU圏から中華圏まで)は、資源リサイクル施策に関しては、きれいな一枚岩の上に描かれていますので、あっという間に、いわゆる動脈/静脈産業の垣根が取っ払われ、勢力図が書き換えられることは考えられます。仮に、そうなってしまえば、産業の舵取りの主体が、各自動車メーカーから、金属原料・製品を供給するメーカー側に移転することも考えられます。資源リサイクル業界に革新を起こすということは、これぐらいのパラダイムシフトを一晩で達成できるほどの力を持っているということの証左でもあるのです。

それだけのダイナミズムを包含しているが故に、為政者は《グリーン革命》の達成に必死になっているのでしょう。彼らが、血眼になって"利益の泉"の造成をしているということは、我々が想像する以上に、大きな変化の波があっという間に押し寄せ、気づいた頃には、既成概念がひっくり返っていることも十二分にあり得ます。

ゴミは、ゴミではなくなるのです。ゴミは、宝なのです。

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